後世に遺す財産がなくても大丈夫。それなら「生き様」を遺せばいい。
(本記事の内容は、特定の個人が推測できないよう、配慮しています。)
人生いろいろ、財産もいろいろ
私は普段、個人や法人の「財産やお金」に関する様々な仕事をしています。
その中の一つに「相続」があります。
相続手続きというと、役所、年金事務所、金融機関、証券会社、税務署、法務局、家庭裁判所、警察署、陸運局など、一般的に言われる「カタい」お仕事の所とのやりとりが中心となるため、仕事は複雑ながら「定型的」な面があります。
(それだけミスが許されない仕事、という意味です。)
一方、「定型」からは大きくかけ離れたものがあります。
それは、ご遺族からお聞きする、故人のこれまでの「人生」と遺した「財産」です。
歌にもある通り「人生いろいろ」であることは、ご存知の通りです。
そして、遺される「財産」の額。 これも「いろいろ」です。
「お見事!」と拍手したくなるほど、限りなくプラマイゼロで財産を使い切った方もいれば、ご遺族だけでは使い切れないほどの財産を遺した方もいらっしゃいます。
将来財産を遺せるかは、心配事の一つ
一方、今こうして生きている私たちは、「将来どれだけ財産を後世に遺すことができるか」ということに頭を悩ませます。
個人の方であれば、
「たくさんいる相続人同士で揉めないように、現金化できる財産を遺したい」
「資産運用で遺せる額を増やしたい。」
事業を経営している方であれば、
「株式の評価価値をできるだけ高めておきたい」
「生命保険を活用して節税できるようにしておきたい」
これらの希望は、努力と工夫次第で叶えることができる場合があります。
(そしてこれらを叶えるお手伝いをすることも、私の仕事の一つです。)
しかし、それが叶わない場合もあります。
そもそも、日々の生活がギリギリで、望むだけの財産を遺せる見込みすらない場合だってありえます。 そう考えると、悲しく不安になるものです。
内村鑑三著「後世への最大遺物」
私を含め、そんな心配を抱えている方に、「そっと」おすすめしたい本があります。
それは、キリスト教思想家(無教会主義を唱えた事で知られる)の内村鑑三(1861~1930)による「後世への最大遺物」という本です。
(以下、ネタバレ部分を含みます。)
この本が書かれたのは、今から125年前の明治27年(1894年)。
内村鑑三がキリスト教徒向けの夏季学校(今でいうYMCAでしょうか)にて講演した内容を収録したものです。
大昔の本ですが、「お金を遺せない」悩みには効く内容です。
財産(お金)は大事。 遺せればよい。
内村鑑三はこの本の中で、大きく「後世に遺すべき」4つのものを挙げています。
まずは「財産(お金)」。
後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切なものがある。 何であるかというと金です。 われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです。 それは多くの人の考えにあるところではないかと思います。
お金以外のもので遺せるものを探すはずが、いきなりお金が大切なんて、面食らってしまいます。
しかし内村鑑三は、「お金」の大切さを全然否定しません。(ここが彼の凄いところです。)
遺せるのなら「お金」を遺した方がいい。 そう言い切っています。
しかし、こうも言っています。
「誰もがお金を貯める力を持っている訳ではない。できる人はある種の天才である。」
お金が駄目なら、「事業」を遺す。
では、それができない人は何を遺すべきか。
それは、世のため人のためになる「事業」だ、と言います。
(前略)それでもし金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際問題が出てきます。(中略)考えてみますと、事業です。 事業とは、すなわち金を使うことです。
その例として、箱根で貧乏暮らしの農民兄弟が「この有難き国に生まれたからには何かを後世に遺さねばならない」と言って、何十年もかけて山をくり抜いて湖水の水を取り出し、水田を作り上げた話が出てきます。
しかし、それでも事業をするには、「特別の天才が必要で、また社会上の地位」が必要です。 誰にでもできる訳ではありません。
お金も事業も駄目なら、思想を遺す。
そこで、お金も貯められず、事業もできなくても、できることがあると言います。
それは、「思想を伝えること」です。
(前略)もし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。(中略)私の思想です。(中略)私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。
つまり、自分の思想、考えを書き記し、伝えることならできる、ということです。
この「思想を遺すこと」で後世に偉大な影響を与えた例として、「ユダヤのごくつまらない漁夫」や「その他世に知られない人たち」によって書かれた「新約聖書」を挙げています。 ご存知の通り、新約聖書は旧約聖書と合わせた世界一のベストセラーです。
これはかなり極端な例ですが、内村鑑三は、私たち凡人にも思想なら遺せるからとにかく書いて見なさい、と勧めています。(この言葉は、こうして悩みながらブログを書いている私の励みです。)
(中略)それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。 そうしてゆけばいくら文法が間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。 それがわれわれの遺物です。 もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。
しかし、書いて表現すること、そして、それが世の中に読まれることは、誰でも成し遂げられるわけではありません。
お金も事業も思想もダメなら、生き様を遺す。
それでは、金もない、事業も興せない、思想を伝えることもできない。
それではどうするか。 実は、この3つと違い、誰でも遺せる「最大遺物」がある、といいます。
それは、「この世は歓喜である、ということを実践して生きた生涯」を遺す、ということです。
(中略)これは誰にでも遺すことのできるところの遺物で、(中略)それは勇ましい高尚なる生涯であると思います。(中略)この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去る、ということであります。
その具体的な例として、二宮尊徳(幼名金次郎)が出てきます。
勤勉の象徴として、薪を背負いながら本を読み歩く子ども時代の像は有名ですね。
金次郎は孤児となり、いじわるな叔父に預けられてしまい、仕事が終わった夜に大好きな本を読むことを、「(灯りに使う)菜種油がもったいない」という理由で禁じられてしまいます。
そこで、金次郎はどうしたか。
誰もいない川辺に行って菜種をまき、1年かけて菜種を収穫し、油屋へ行って油と交換し、その油で本を読んだ、ということです。 やがて大人になった金次郎は、日本各地の村を事業で再興するなど、多くの実績を残します。
この金次郎の例のように、さまざまな困難に打ち勝ってでも、何かを実践した生涯。それこそ、後世に遺すべき「最大遺物」だと内村鑑三は言います。
二宮尊徳の例はかなり極端な例かも知れません。
しかし、「立派に一生懸命生きた」生涯、つまり「生き様」なら、誰もが遺せるものではないでしょうか。
私自身は、この「生き様」をこう考えています。
故人が、いい生涯だったと思える生涯をおくったこと。
そして、その生き様が、遺された者の心に残るものであること。
お金を遺すことができれば、それに越したことはありません。
でも、「本人は満足だったよね。」とご遺族の方がお話しているのを聞くたび、故人が納得できる生涯を送ったことが、最高の遺物ではないか、と思うのです。